先日知人から、「あなたのブログは文章が難しくて長く、コメントのしようがない」
そう指摘をうけました。 たしかにそのとおり。 ブログとは、日々思った事を可能な限りこまめに、簡潔に、更新をするというのがた正しいあり方なのは間違いありません。 ただ、これは私の性分。コメントのしようがない面倒くさいブログがあってもいいのかなと思うのです。 なんてね‥‥ ![]() 福岡城をぐるりと取り巻くお堀に架かる二つの橋は、「上の橋(かみのはし)」「下の橋(しものはし)」と呼ばれていた。私が子どもの頃はそのあたりはまだそういう町名だったのである。 現在の平和台と大手門の交差点である。 城趾西側の大堀は、「大濠公園」として整備され、今は市民の憩いの場となっている。 戦後、進駐軍は福岡にも入り、海の中道飛行場(海軍飛行場)を接収して「米軍博多基地」とした。 同時に隣接する福岡第一飛行場(雁の巣)、陸軍席田飛行場(板付)なども接収し、本格的に占領政策を行なった。 1972年に大部分が返還されるまで、これらの施設は米軍の所有だったのである。 米軍が接収した施設の中に「簡易保険福岡支局ビル」があり、今も「かんぽ生命保険福岡サービスセンター」として現存している。 昭和13年に竣工したこのビルは、上から見るとロの字型に建てられ、どこからでも中庭が望めるなかなか瀟洒な建物だ。 地下鉄「大濠公園駅」の目の前にあるこのビルは、1957年に返還されるまで米陸軍病院として使用されていたそうである。 返還当時、深夜に米兵の幽霊が出るという噂が絶えなかったという。 ![]() ![]() 福岡城の東西に延びる塀に連なる数馬門、薬院門、赤坂門は、廃藩置県の際にすぐに払い下げられ、明治期にはすでに石垣だけになってしまっていたそうだ。 廃藩置県後すぐは城内に県庁が置かれていたようだが、明治23年の古地図を見るとすでに陸軍営所となっている。終戦までの間に城内の大半の建物は解体されたようだ。 戦後、陸軍施設跡にはほどなく球場や陸上競技場などのスポーツ施設が建設され、戦災からの復興を願い「平和台」と名付けられた。 周知のことだが後年になって球場の改修工事の際、鴻臚館遺跡が発掘されたため、球場は解体され、陸上競技場と球技場のみ現存している。 平安時代の海外交易施設「鴻臚館」跡は未だ発掘調査中で、一帯を再建も含めた整備計画がNPO法人などによって活発化しているらしい。 熊本城の本丸御殿再建が一層運動を活発にしているようだ。 福岡城の再建。そんな税金の使われ方なら私は文句はないのだけれど‥‥ ところで、西島伊三雄先生の作品である福岡市営地下鉄の駅シンボルマーク、「赤坂駅」のマークは赤坂の「ア」を陸上競技場を走るランナーに見立てているのをごぞんじでしたか? ![]() ![]() マイ・ブルーベリー・ナイツという映画を見た。 主演は歌姫ノラ・ジョーンズ。 全編にノラ・ジョーンズの歌が流れ、ひとことで言うと「とてもお洒落な映画」だった。 CG駆使のどアクション映画流行の中、こんな映画を見ると心が和む。 福岡一の繁華街「天神」。
古くは「天神町(てんじんのちょう)」と呼んでいた。 松本清張の長篇「時間の習俗」にはこの「てんじんのちょう」が登場する。 菅原道真が大宰府に左遷される道中に博多に上陸した際、水面に自分の姿を映した場所とされる水鏡天満宮が「天神」の地名の由来とされる。 ![]() 福岡市内には城下町の名残りの地名が多く存在する。「萬町」「大名町」「赤坂門」「大手門」「黒門」など。 天神のほど近く、大名という町の明治通り沿いの一等地に母の実家はあった。戦前は家具商を営んでいて、敷地内に長い長い赤れんがで積まれた塀で囲まれた200坪の家具工場があり、現在の中洲中島町にショールーム構えていたほど盛業だったようだ。 戦後は冷蔵庫の制作会社としてホテルや一流料亭の厨房から引き合いがあったようだ。当時の冷蔵庫は家具の技術で作られていた。木製だったのだ。 後年は技術も増し、子どもの頃遊びに行くと、背丈よりもうんと大きな業務用冷蔵庫のステンレスの扉が立て掛けてあった。 今はもうないが、こんなところに200坪の工場があったのだと話しても、どなたにもなかなか信用していただけない。 隣には赤レンガ造りの壮麗な「大名カトリック教会」の建物があった。現在は近代的な建物に建て替えられているが、昔の建物は久留米の聖マリア病院の敷地内に移築されている。 ![]() 日本三大歓楽街の一つ「中洲」。慶長年間に、城下町の福岡と商業部の博多を結ぶために橋が架けられた頃からすでに歓楽街の様相を呈していたようである。 私が若い頃は、映画館が建ち並び、老舗百貨店の玉屋も盛業で、昼も夜も大勢の人で賑わっていた。 今ももちろん夜は大人の街として、地元の人や観光客で大変なにぎわいであるが、昼の中洲は失礼だが少々荒んだ感じがする。 博多の古い人は「なかす」ではなく、「なかず」と呼ぶ。 地下鉄「中洲川端」駅の東側の階段を上がると、「川端通り商店街」に直結している。 再開発の前は「上川端商店街」「下川端商店街」と呼ばれていたが、「川端は戦後復興の象徴だった」と、小さい頃よく母に聞かされた。 商家の娘であった母も、実家は戦災を免れたものの、疎開先の商品が戦禍にあったりと、大変だったようだ。 福岡大空襲で焦土と化した福岡の街で、辛うじて災禍を免れた川端の街は、戦後復興の原動力となったのだろうか。 上川端町の冷泉公園には、空襲で亡くなった人たちの追悼の碑がある。 「戦争はいかん。絶対いかん」 これもまた、母の口癖である。 ![]() 呉服町といえば、私には幼い頃の思い出がある。
父の実家が営む会社の本社が中呉服町にあった。 古くから楽器や蓄音機を取り扱う商社で、レコードの販売店を市内に何店舗か構えていたようだ。 私は小学3、4年生だったか、この呉服町の本社の2階で行なわれていた何かの宴会に連れられてきていて、窓から何気なく道路を挟んだ向い側のビルを見ていた。 マネキン会社の福岡支店のビルで、赤茶けた色に塗装されたビルは、角が大きく曲面になっていて、2階の角は大きな曲面ガラスがはめ込まれ、中にはマネキンが数体展示してあった。 たぶん休日だったのだろう、ビルはひっそりと静まり返り、屋上からは一筋の煙が立ちのぼっていた。 煙? 休日のオフィスから? その場にいた酔った大人たちに、火事ではないかと訴えたが、宴もたけなわでだれも相手にしてくれない。 火事だった。 見る見るビルは煙に包まれ、消防車が十数台も集まり、ビルの外壁にかけた長いハシゴを消防隊員がのぼり、手斧のような工具で窓や壁を次々に壊してその穴から放水する。 大きなショウウインドウの内部も真っ赤な炎に包まれ、マネキンが見る見る燃えていく‥‥ 小学生の私に取って、忘れる事のできないショッキングな一場面であった。 ![]() 父の実家は御供所町にも店舗があったらしく、写真はそれのようだ。 従業員でどんたくのパレードに参加した時の一コマらしい。 中呉服町(当時は官内町)の建物跡は駐車場になってしまったが、写真の御供所町の店舗は現在建物だけが現存する。 博多に残る「呉服町」という地名は、その昔この地に多くの呉服商が居住していたのだろうと容易に想像できる。
実際にそのようであるし、全国の城下町にある呉服町という地名も同じ由来を持つのである。 現在では「上呉服町」「中呉服町」「下呉服町」に別れ、純粋に「呉服町」という地名は今はもうない。 このあたり、戦時中幸いにも戦災や空襲を免れたようで、随分開発は進んだものの、一歩路地に入り、裏通りを散策すると、昔ながらの街並や商店、由緒ある神社仏閣に数多く出会う事ができる。 ![]() また、大博通りと明治通りの交差点に位置する地下鉄「呉服町駅」を中心に、「大博町」「神屋町」「奈良屋町」「対馬小路」「古門戸町」「綱場町」「店屋町」「冷泉町」「御供所町」など古い町名が未だに残り、昔ながらの集住の区画を形成しているのもこの地区の大きな特徴である。 ただ、残念なことに、この辺ではひときわレトロな雰囲気を醸し出していた老舗の茶舗は、近々取り壊されてワンルームマンションになるのだそうだ。 新築より修復保存の方が費用がかかるといわれる昨今、老朽化と、福岡西方沖地震によるものでしかたがない事なのだが、誠に残念である。 ![]() 明治23年発行の「福岡市明細図」という古地図を見ると、当時の福岡市というのは現在の中央区と博多区のほんの一部で、「原村」「西新町」「鳥飼村」「樋井川村」「警固村」「八幡村」「住吉村」「堅粕村」「豊平村」「千代村」など、現在に地名を残す所は周辺の郡部として地形のみが描かれている。
この古地図で見ると、「豊平村」「千代村」は、博多湾に面する海岸線からほとんどを広大な松林が占めていて、中ほどに崇福寺がひっそりと描かれており、中央には「千代の松原」と大きく記されている。 「千代(ちよ)」とは千年の意で、長い長い年月の事。 松原が人々を災害から守り、千年の長きにわたって繁栄する事を願って称された「景勝千代の松原」。 松原の景勝は時代と共に失われ、公園として整備されたあと、敷地内に県庁舎が建設され、海岸線もうんと沖の方に移動して、今では博多区千代という地名に名残りを残すのみである。 ![]() 写真は地元の方が提供してくれた昭和28年の地蔵松原(箱崎)。 昔は生の松原(いきのまつばら)から箱崎に至るまで、海岸線には延々と松原が続いていたのだ。 ![]() 九州大学付属病院は、法学部や工学部のある箱崎地区とは距離が離れており、病院と医学部、歯学部、薬学部などがある地区を九大馬出地区という。
九大設立の前身である「福岡県立病院」の跡地で、九大の中では最も古い地域である。 馬出という地名は、筥崎宮の神楽に用いる馬を出した場所だとか、秀吉の島津征伐の際、馬の世話を行った場所だとか、いろいろな説がある。 最寄り駅の地下鉄「馬出九大病院前」駅にも不思議な事がある。 九大病院に行くにはお隣の「千代県庁口」の方が若干近い。 さらに、県庁に行くにはこの「馬出九大病院前」の方が近いのだ。 実際に「県庁にお越しの方は次の馬出九大病院前でお降りください」と車内アナウンスがある。 ![]() ほど近くに馬出小学校がある。 この場所には戦前動物園があったそうで、キリンとゾウを象ったユーモラスな門柱だけが現在も小学校の敷地内に残されている。 ところで、「馬出」を「まいだし」とは福岡に住んでいる人でも読めないものである‥‥。 ![]()
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